【りすぼん丸事件】の概要!なぜイギリス反日キャンペーンのきっかけに?

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海,戦艦,モノクロ,沖白波

今から約100年前に横浜で起工された貨物船、りすぼん丸をめぐって、今イギリスで反日キャンペーンが起こっています。

正直、ニュースを知るまでは、りすぼん丸って言葉すら全く聞いたことがありませんでした。

今回は、事実の悪い部分しか全面に報道されていない中、捕虜の日本本土への輸送中に起こったりすぼん丸事件の概要と、反日キャンペーンのきっかけとなった原因について紹介します。

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りすぼん丸ってそもそも何?


りすぼん丸は、日本郵船が1920年に竣工させた貨物船でです。

1万載貨重量トン級の大型貨物船として、1919年(大正8年)に横浜船渠で起工されました。

1920年(大正9年)に竣工後、姉妹船とともにパナマ運河経由のニューヨーク行き定期線へ就航した。

日本郵船の主力貨物船として活躍したが、1930年頃には大阪商船の畿内丸型貨物船など競合各社の船に速力や燃費で劣るようになり、1934年(昭和9年)に就役したN型貨物船と交代でニューヨーク航路を去った。

以降はムンバイ航路やヨーロッパ航路で運航された。

日本が対米戦の準備に着手すると、りすぼん丸も1941年(昭和16年)11月1日に日本陸軍によって徴用され、船倉へ蚕棚と呼ばれる兵員輸送用の多段式ベッドを設置するなど軍隊輸送船として改装された。

りすぼん丸は同年12月24日、同じT型の龍野丸、豊橋丸、富山丸を含む23隻の輸送船とともにフィリピンの戦いでルソン島ラモン湾(英語版)への上陸戦に参加した。

その後、1942年(昭和17年)2月2日に第21師団を乗せて護送船団に8番船として加入し馬公からハイフォンへ向かおうとした際、出港直後に日本海軍が敷設した防潜網(英語版)へ入りこみ付属機雷が爆発して大破、19人が死傷した。

馬公警備府へ曳航して応急修理の後、香港造船所で9月18日まで本修理を受けた。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/りすぼん丸

その後※ヘルシップのうちの1隻として活躍しました。

※ヘルシップとは、戦争捕虜などの囚人が輸送された無標識の商船のことで、日本では、主に日本軍が第二次世界大戦中に連合国の捕虜をフィリピンやシンガポールから輸送するために使った船のことを指します。

輸送された捕虜たちは日本や台湾、満州国、朝鮮で、ハーグ陸戦条約6条による労務者として使役されたようです。

今の時代からは、捕虜の輸送なんて言われても、全く想像も付きませんよね!

りすぼん丸事件の概要とは?

太平洋戦争の戦時中は、日本国内の労働者不足が深刻になったようで、りすぼん丸を使って連合国軍の白人捕虜を日本国内に移送して、労務に従事させることを決定しました。

1942年8月頃から適当な輸送船に少数を便乗させる五月雨式で始まり、同年10月頃から本格化しまし、りすぼん丸も9月18日に大破からの修理を終え大規模な捕虜移送に投入されたようです。

りすぼん丸には香港の戦いで降伏したイギリス兵ら1816人の捕虜が乗船した。

前甲板の第1船倉が主にイギリス海軍関係の捕虜、同じく第2船倉がモンクリーフ・スチュワート中佐以下ミドルセックス連隊(英語版)やロイヤル・スコット連隊(英語版)などの捕虜、船橋直後の第3船倉はピット少佐以下主に王立砲兵連隊(英語版)関係の捕虜の居住区に割り当てられた。

約10カ月間も食糧や医薬品の支給が不十分な収容所生活を送っていたため、乗船した時点ですでにおよそ75%は赤痢やジフテリア、脚気の患者だった。

9月25日の乗船から出港までの2日間にジフテリア感染の疑いで収容所へ戻される者も数人出た。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/りすぼん丸

衛生環境や栄養状態も悪い状況での捕虜移送は、とてもリスクの高かった事が簡単に想像できます。

それでも、それほど労働力不足は深刻な問題だったんですね!

10月1日午前7時15分、りすぼん丸は、舟山群島沖の地点を航行中、米潜水艦グルーパーの魚雷攻撃を受けた。

グルーパーは目標に捕虜が乗船していることに気付いていなかった。りすぼん丸には魚雷2発が命中したうち機関室付近に命中した1発は不発だったが、右舷船尾のスクリュー付近に命中したもう1発が爆発、スクリュー軸伝いに機関室が浸水、舵も破壊されて航行不能に陥った。

命中時に日本兵1人が戦死、4人が負傷している。浸水は緩やかで、沈没までは時間がかかると考えられた。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/りすぼん丸

戦艦ではないにも関わらず、攻撃を受けてしまった事実。

今のようにGPSなどの通信設備が整っていたら、無抵抗だった、りすぼん丸は攻撃を受けずに済んだんでしょうね!

そう考えると残念でなりません。

なぜイギリス反日キャンペーンのきっかけに?

ではなぜ、りすぼん丸事件が、イギリス反日キャンペーンのきっかけになったのでしょう?

それは、この事件の3つの点にあると思われます。

捕虜が船倉へ戻され閉じ込められた事

日本人退船中の混乱を避けるため船倉へ戻され、船倉口はハッチを閉じた上にターポリン(覆い布)まで被せて封鎖されたという事ばかりが取り沙汰されています。

しかし、その時の対応(捕虜代表へ曳航する旨の説明をして了解を得た事、食料もしっかり配布した事)は伝わっていないようです。

どうしても悲劇のヒロイン的要素ばかりに注目が集まってしまうものなんですね。

監視兵は捕虜に対して発砲した事

監視員が捕虜に対して、発砲の事実はあるようですが、その時の状況や被害についての記述がなく詳細は不明です。

無抵抗の捕虜に対して発砲したのであれば、大問題だと思いますが、同じ日本人としては正当防衛に値する何かがあったのではないかと思いたいです。

犠牲者の数が多い事

犠牲者が850人という大惨事になってしまったことは、紛れもない事実です。

しかし、1816人の捕虜が乗員していたこと、1000人近くの人が助かった事は残念ながら全面に出てきていません。

もう少し事実をしっかりイギリス国民に忠実に伝えることが出来たら、もっと違った取り上げ方をされていたでしょう。

きっと反日キャンペーンなんて言うことも起こらなかったかもしれませんね。

まとめ

平和な現在では、全く想像も出来ない捕虜の移送ですが、りすぼん丸事件では、概要でも説明したように、残念ながら多くの捕虜の犠牲者が出てしまいました。

その悲しい現実は受け入れなくてはなりませんし、なくなってしまった方にはご冥福をお祈りします。

ただイギリス国民は、反日キャンペーンを起こす前に、もう一度しっかり事件の概要をしっかり調べてからでも遅くないでは・・・

仲良く平和に、安心して過ごせる世の中になりますように!

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コメント

  1. 匿名 より:

    単にチャイナキャンペーンの一環と言うだけの話
    もっとちゃんと調べてどうぞ

    • オヤジ より:

      コメントありがとうございます。
      今後は、しっかり調べて記事を書くように務め、よりよい内容に出来るよう努力していきます。
      今回のコメントをしっかり受け止め、糧にさせていだたきます。
      貴重なご意見ありがとうございました。